雨雲、のち晴れ空

創作と日常と

壁だらけ

あっという間に入社して2ヶ月が経った。


最初の1ヶ月は研修だったから、実際に配属先で働くようになったのは1ヶ月とちょっと。

与えられた仕事は終わらないし、相変わらず電話応対は慣れない。気付いたら定時を過ぎている。全てメモをまとめて見返せるようにしておかないと業務を遂行することすらできない。

先輩の仕事を妨害してくだらないことばかり聞いているのが申し訳なくなる。

周りがテキパキと仕事を進める中、何もできない自分が嫌で仕方ない。

それでも、とにかく食らいつかなければと毎日必死に生きている。


先日あった面談で仕事の本質を捉えてほしいと言われた時、意味がよく理解できなかった。

目の前のことをやるので精一杯なのにと。


けれどそうじゃない。

わかっていないと応用が出来ないのだ。

もともと勉強するにおいても応用問題が苦手な人間ではあったけれど、どうやら仕事も同じらしい。

業務の目的がわかっていないから、アホみたいな質問をしてしまう。目の前のことしか見ていないから、目の前の失敗しか受け入れられない。

それが少しだけわかった気がした。


わかってはきたんだけれど、実際にそれを考えて仕事をするのは難しい。

私は学生時代の委員会でもアルバイトでも、何事も繰り返し失敗してある程度覚えてからでないと、全体が見えない人間だった。


つまり、要領が悪いのだ。私は。

時々その現実を思い知らされて泣きたくなる。


泣いたってどうにもならないけど。

今はただ、教えてもらえることを必死に繰り返すことしかできない。


2021/06/01


過去、憂鬱


高校生の時の夢を見た。


クラスという狭い箱に区切られた世界と、部活と容姿で簡単に決まる階級と、思春期独特の複雑な人間関係は、たまらなく息苦しい。

夢の中ですら、私の顔は生きていなかったと思う。クラス替えをしたばかりのクラスの雰囲気は、僅かな期待感とぴりぴりする緊張感と、相手を見定める探り探りの感情で溢れていた。独りぼっちになって群れから弾き出されないように、皆がそれぞれの交友関係の中から最善の友達を選び出して、微妙な距離感のまま行動を共にし始める。1年間という期間に縛られて、群れに馴染めるように自分を押し殺し、そのクラスという箱に合った形に当てはめなければならない。そうしなければあっという間に箱から投げ捨てられて、そして二度と戻ることはできないから。


私の最後に属したクラスは卒業のとき、仲が良いだとか最高のクラスだとか豪語する人がいたけれど、友達を見定め、必要でなくなったらあっさり捨てる人ばかりのこのクラスのどこを見てそう言えるんだろうと、思う。

1年生の頃から仲の良かった友達は、このクラスで過ごすうちに私に見切りを付けたのか一緒にいる友達を乗り換えて、そしてもう二度と関係は元に戻らなかった。自分に合う人、合わない人はそれぞれ皆違っていて、だから日が経つごとに自然にその関係が薄れていくことは仕方がないことだとは思う。けれど、突然拒絶されたあの日、どんな目で私を見ているのかがわかってしまったあの時、自分が必要ないと知った瞬間、今まで過ごしてきた時間全てが嘘だと言われた気がした。どうでもいいと思われてしまったことが何よりも悲しかった。自分がもっと一緒にいて楽しい人間だったらと悔い、友達を恨んでしまう自分を恨んだ。

今更思い出したって何にも変わらないんだけれど、クラス替えの夢なんて見るからつい、文字に起こしたくなってしまった。


高校生の頃の私はいろいろな感情や現実に振り回されて、性格がぐちゃぐちゃのスパゲティーみたいにひねくれていた。卑屈で負の感情に雁字搦めにされていた私がその沼から抜け出せたのは大学生になってからだった。

その話はまたいつか。


静から動へ

 

 ひとつ、大きなことを終えた。

 大学生になって2年目の秋、私たちが作り上げた数日間は今までにないくらい、あっという間に過ぎていった。朝と夜の静寂と昼間の喧騒。それまで何もなかった場所に何かが作り出されていく感覚。響き渡るステージの音。歩き回る人々と、笑顔と、声と、ゆるやかな風と、秋の匂いと、何もかもが混ざり合って形成されていたのは、紛れもなく非日常だった。そんな非日常に私自身も微かに陶酔していたと思う。

 活動をしていて学んだことはなんなのか、とふと考えてみた。

 組織のなかで生きることの難しさを知った。自分の実力を痛感した。自己嫌悪や劣等感に耐えながら存在しなければならない辛さを知った。仕事が完璧にこなせそうな人でも補い合っていることを知った。当たり前が当たり前でないことを知った。見えないところで誰かが動くから何かが作り上げられるのだと知った。

 辛い分だけ達成感があった。嫌なことがあって、嬉しいことがあった。ミスをして泣いて、褒められて笑った。準備したから成功した。そしてそれはみんなで作り上げたからこその結果だった。

 なんだか使い古された陳腐な感想しか出てこないなあと思ってしまう。私が2年かけて学んだことは、誰でも言えるような当たり前のことばかりだったのかもしれない。

それでも意味はあった。この経験はきっと忘れられないものになる。

 

 だから中途半端に来年を選択したくない。生半可な気持ちで続けたくない。

答えを出すのはもう少し先の話。

おはよう

 

 光を感じて瞼をそっと持ち上げると、窓の外に水色の空が広がっていた。ぼんやりとした頭が次第に覚醒して周りを認識し始める。カーテンはあけっぱなし。布団とクッションはくしゃくしゃになって私の隣に横たわっている。私の頭は、本来あるべき場所と180度回ったところにあった。ベッドの端っこに放り投げられた眼鏡と携帯を掴み、起き上がって時間を確認する。映し出された画面には5:25の文字。寝落ちだ。またやらかした。

 

ここまで書いて放置してて何書こうと思ったのか忘れた

夏休みは夜更かしの嵐

 

ぽとり


     蝉が泣いて、夏が落ちる。


 電車を降りて改札を出て、いつもの道を歩く。綺麗に敷き詰められた白いタイル。外観のためだけに植えられたであろう人工的な木々の並び。建設中のタワーマンション。数えきれないほどの街灯に照らされたこの街は確かに明るい。明るさを求めて変わっていく街で、何一つ変わらない私は生きている。

 今日も、歩きながらイヤホンから流れる音楽を耳に通した。流行を知るために適当に作ったプレイリスト。曲調とリズムをバックミュージックに考え事をする。ぼんやりと。記憶がないので果たして本当に考え事をしていたのかすらわからないけれど。

 ふと、視線を下に落とした。日常に非日常が転がっていた。それを無意識に避けてしまったときの私の感情は、きっと嫌悪だっただろう。ぽとりと、まさに木からそのまま落ちたと思えるようなその恰好は、明らかに目を背けたいものだったから。身を削って鳴いて、瞬く間に生を終える。夏が落ちていく。何度繰り返してもこの夏の終わりの感じ方には慣れない。

 

 今日は涼しかったね

劣等感、決別

 

 SNSは他人の私生活を覗くものだと思う。だから時々、覗き見たものと自分との差を比較して劣等感に襲われる。本当は、知る必要も比べる必要もないことなのに。

 

 派手な生き方にあこがれたことがある。

 例えば、たくさんの友達と毎日のように遊んだり、サークルやバイトのメンバーで旅行したり、オールして飲んでカラオケに行くだとかそういうたぐいのものだ。毎日のように更新されるSNSを覗いて、彼らの日常を羨ましく思った。そして、ただ平凡に生きている自分との差を突きつけられている気がして、この瞬間を無駄にしている気がして、ひどく自分を嫌った。

 

 けれど、不器用すぎる私にはその生き方は難しい。

 平坦な人生を送ってきた自分には、他人の「普通」が眩しく見えてしまう。ときどき眩んで、立ち止まってしまうほどに。

 もちろん派手な人生だけが正解じゃない。何か目的があったり、夢があったり、自分の信念を持って堂々と生きている人はかっこいいと思う。これが自分の人生だ、って割り切れればどんなに良いことだろう。

 私はまだ、軸がブレブレみたいだ。

 目的も夢も信念もないから、はたから見て楽しそうな人生を羨んでしまう。人の人生なんてひとそれぞれだって頭ではわかっているけれど。ぐらぐら、ゆらゆら、ぶらぶらと、幼稚な足取りで人生を歩いている。自分が今どこにいるのかもわからないまま。

 

 それでも、大嫌いな過去の自分よりは前進している。はず。

ずっと囚われていた強い劣等感から抜け出すことができたから。

時々襲われはするけれど、これからも上手く付き合っていくしかないんだろう。

 

 

ふわふわ浮かぶ

 

たまに現実で起きた出来事をどうしようもなく文字に起こしたくなることがある。

自分の心の中じゃ消化しきれないものが溢れていくような、そんな感覚。

消化されないまま時間がたつと、じわじわと記憶の片隅に沈んでしまうから、少しでも文字が浮かんだらぼんやり気の向くままに書いていこうと思う。今日あったことを忘れないために。雲みたいに流されないように。

 

という名のただの気まぐれ日記